アクティブ・ラーニング(active learning)
アクティブ・ラーニングは直訳すれば能動的学習である。最近では、文科省は学修というので紛らわしい(*)。大学大衆化の中で学修意欲やスキルの低い学生も大学進学し、大学生の学力が低下し、従来の伝統的講義(いわゆる受動的座学)では学修が難しくなってきた。また情報・知識社会の進展に伴い、また社会が新規の複雑かつ困難な社会問題に次々に直面することになり、与えられた知識の記憶よりも、情報を自ら検索し、それを評価・取捨選択し、意味ある知識にまで(迅速に)構成・構築することが格段に重要になってきたのである。
フィールドワークだとかPBLだとか、種々の学修新形態が試行されているのも、このような学生や社会環境の変化が背景にある。いわゆる「ゆとり教育」でさえその意図はこの流れにあったといえよう。しかし「生きる力」などの抽象的で漠然とした概念しか提示できなければ、現場の教師もどう導入・実践したらよいか確信が持てなかったはずだ。もちろん概念が曖昧なのだから妥当な評価もままならない。アクティブ・ラーニングの現状にもそのような危惧がある。
ここで溝上の定義を紹介しよう。『一方向的な知識伝達型講義を聴くという(受動的)学習を乗り越える意味での、あらゆる能動的な学習のこと。能動的な学習とは、書く・話す・発表するなどの活動への関与と、そこで生じる認知プロセスの外化を伴う』。
正直なところ「そこで生じる認知プロセスの外化」がわかりにくい。個人的には、認知科学の用語「メタ認知」を使って『活動のメタ認知』を伴うとしたい(あるいは内省(reflection)でもよいだろう)。メタ認知はその活動に関する知識(メタ認知的知識)と活動状態のモニター・制御(メタ認知的活動)を意味する。単純化して言えば、自らの学習活動自体や学習方法を自覚し、学習内容の統合化や学習活動の制御スキルにまで高めるような学習のことである。
あるレベルの心的活動を柔軟に制御するためには上位(メタ)レベルからそのレベルの記号を操作する必要があるという(情報処理)システムの階層性の1例であり、ここでのメタ学習は、柔軟な学習、学習の学習、学習過程の学習、多様な学習法(レパートリー)の学習とも言い換えられるだろう。
結局、「そこで生じる認知プロセスの外化を伴う」あるいは「活動のメタ認知」は簡単に顕在的には確認できない。つまり外見的なアクティブ・ラーニングは単なる教育手法であって、本物のアクティブ・ラーニングではないかもしれない。本物の(authenticな)学習とは何か、を明らかにする必要がある。
フィンクは(大学)教育の目標として“意義ある学習(Significant Learning)”経験を考えた。そしてこの学習過程は、(a)深いエンゲージメント(学習への深い関与)、(b)高い活動性、という特徴を持ち、学習の結果・波及効果として、①学生に科目を超えた広範囲で長期的・持続的な意識変化をもたらし、②その後の人生における価値観の形成に影響を与える、とした。
(a)は内発的動機づけに関連し、(b)がアクティブ・ラーニングと関係し、①②は専門・職業教育を越えた一般教育の問題と関係すると思われる。こういう問題は、明治以降、欧米教育の導入の歴史の中で、日本では徹底した議論と一貫した制度改革がなされてこなかった。もちろん欧米でも、専門教育と教養・一般教育の関係問題は19世紀後半以降、ずっと揺れ動いてきたのではあるが。
[注]
*平成24(2012)年8月28日に出された中央教育審議会(中教審)答申「新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて~生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学~」の中で「大学設置基準上、大学での学びは『学修』としている。これは、大学での学びの本質は、講義、演習、実験、実技等の授業時間とともに、授業のための事前の準備、事後の展開などの主体的な学びに要する時間を内在した『単位制』により形成されている」と記されている。要するに単位制度のもとでの「授業+前後の主体的学習」を合わせて学修と呼ぶ。
これは答申冒頭で、「将来の予測が困難な時代が到来しつつある」と分析し、不透明な時代を切り拓くために大学教育の質的転換を促していることに基づく。アクティブ・ラーニングは学修の中の1つの学習形態と考えたい。
[文献]
- 溝上慎一(2014)「アクティブ・ラーニングと教授学習パラダイムの転換」東信堂
- フィンク(2011)「学習経験をつくる大学授業法」玉川大学出版部(Fink,L.D.(2003), Creating Significant Learning Experiences. John Wiley & Sons.)
- 大口邦雄(2014)「リベラル・アーツとは何か」さんこう社
(奥正廣)