日本人は集団主義的か? -“日本的集団主義”再考-

日本人は集団主義的か? -“日本的集団主義”再考-

この言い古され一部信念化した問い・仮説は、相当前から疑いがあったが[1]、最近徹底した吟味を行った研究成果が出版された[2]。そこでは、質問紙研究でも実験研究でも、方法論的に信頼できる研究では、(米国人等と比較して)日本人がより集団主義的であることを示すものは1つも見いだせなかった。そしてなぜそのような思い込みが生じ広まったかも、偏見やステレオタイプ、認知バイアス等の研究成果をふまえ徹底的に検討している。

そもそも自然科学的研究では個人主義的あるいは集団主義的な研究成果などというものはありえず、日本の自然科学研究は明治以降、資質や思考・研究法、研究環境的には違いがあっても、欧米と遜色ない成果をあげてきた[3](*)。したがって、研究や産物に文化差が顕在化するとするなら、それは本来的に文化的差異のある対象・事態(要するに文化的価値規範の異なる人間社会的事象)に対するものに関してだろう。創造性に関しても同様である[6]。

ニスベットらは、彼らの“分析的 vs. 包括的”思考様式の研究で、極東(東アジア)文化圏の被験者は包括的思考様式が中心で、分析的思考中心の欧米被験者に比べ、特定の注目対象の知覚・認知がその周囲刺激に影響されやすい(場依存的である)ことを明らかにした。これは、直接的には注意(attention)配分の問題と考えられるので、何にどのように注意を向けるかは、文化規範や社会的学習の結果としての、自動化しデフォールト化(初期設定化)された認知・行動様式に左右されることを示している。

マーカスと北山らの“相互独立的 vs. 相互協調的”自己観の研究でも、後者は、欧米と比して、相対的に極東(東アジア)文化の人々に多いのであるが、その極東文化人が米国に長期間留学したり定住したりすると、典型的米国人と極東人の中間になることがわかってきた。

要するに、文化差は固定的なものではなく、養育・教育制度を含む生活環境の反映として自動化・デフォールト化された行動様式に過ぎないと考えられる。言い換えれば環境・制度や教育等を変えれば文化・行動様式は変わりうることを示唆している。

[注]
* [3]の終章で興味深い指摘がある。明治維新後の初期の自然科学は(出自・気質・気概・教養が武士階級的な)サムライ科学者が支えたこと、江戸期の儒教的文化・教養で数理科学的な素養はあり自然科学的思考・素養(有形文化)には何の問題もなかったこと、しかし欧米の科学制度の背景にある無形文化(思想・哲学・習慣・宗教・社会制度等)は未だ十分理解・修得されていないこと(福沢諭吉の言では独立心の欠如)、それが現代日本の諸社会(システム)問題の背景にあること、それらが凝縮・集約して現れたのが2011年3月11日以降の“福島原発事故問題”であると考えられること、を述べている。また[4]で山本は、類似した問題意識で、明治以降現在までの日本の科学技術の発展史を総括して(一貫した)「総力戦体制」と呼んでいる。[5]では、日本の現代の雇用・教育・福祉の社会制度(しくみ)が、明治期の官庁や軍隊のしくみを起源にして展開してきたことを丹念な文献渉猟に基づき説得的に示している。これらを代表とする諸文献が示唆しているのは、現代日本の諸社会問題は、明治期以来展開してきた日本社会が制度疲労を起こし限界に来ているということかもしれない。

[文献]

[1] 我妻洋(1987)「社会心理学入門(上・下)」講談社学術文庫)、第1章(原著:同(1981)「社会心理学諸説案内」一粒社)
[2]高野陽太郎(2008)「集団主義」という錯覚」新曜社
[3]後藤秀機(2013)「天才と異才の日本科学史」ミネルヴァ書房
[4]山本義隆(2018)「近代日本百五十年:科学技術総力戦体制の破綻」岩波新書
[5]小熊英二(2019)「日本社会のしくみ」講談社現代新書
[6]Hennessey,B.A. & Amabile,T.M.(2010). Creativity. Ann. Rev. Psychol. 61. 569-98.

  • 増田貴彦・山岸俊男(2010)「文化心理学(上・下)」培風館
  • 増田貴彦(2010)「ボスだけを見る欧米人 みんなの顔まで見る日本人」講談社+α新書
  • Kitayama,S. & Cohen,D.(Eds.).(2007). Handbook of Cultural Psychology. Guilford.

(奥正廣)